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第2巻, 10ページ, タイトル: ラタネの図 |
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第2巻, 11ページ, タイトル: |
| ラタ子と称する事は、ラタツキ子といへるを略せるの
言葉也、ラとはすへて食する草の根をいひ、タ
ツキ子とは短き事をいひて、根短しといふ事也、
これは此草の形ちによりてかくは称するなり、
是亦国の開けたる初め火の神降りたまひて、
アユシアマヽと同しく伝へ給ひしよし言ひ伝へて、
ことの外に尊み蝦夷のうちいつれの地にても作り
て糧食の助けとなす事なり、
但し、極北の地子モロ・クナシリ島とふの夷人作る
事のなきは、アユシアマヽに論したると同しき
ゆへとしるへし、
是を 本邦菜類のうちに考ふるに、すなハち
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ラタネとは、「ラタツキネ」という言葉を略した言葉である。「ラ」とは食用植物の根全般を指し、「タツキネ」は「短い」を表わし、あわせて「根が短い」という意味である。
この草がそういう形をしていることから付いた名称である。これもまた、国の開けし始め、火の神が降臨なさって、アユシアママと一緒にお伝えになったと言い伝えられており、ことのほか尊ばれている。この作物も、蝦夷地一円に栽培されており、糧食の一助として用いられている。
*但し、極北の地であるネモロ・クナシリ島等のアイヌの人々がこれを栽培することがないのは、アユシアママのところで論じたのと同じ理由であろう。
ラタネとは、
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第2巻, 12ページ, タイトル: |
| 蔓菁の一種なり、其食するに根葉ともに
用ゆる事全く蔓菁と異なる事あらすして、
味も又同し、夷人のいひ伝ふるところも、此菜ハ
よのつねの草とは事替りて、聊か毒の気なし
とて、疾病の人といへとも、此菜に限りてハ心を
おかすして食せしむる事也、すへて蝦夷のうち
極北の地にあらさるあひたは、土地の美悪にかゝ
ハらす作りたにすれはよく生熟する事也、多く
作る事もあらんには、荒凶のとしの備へになさん
も、便なるへし、
右の二種は蝦夷の闢けし初より自然に生し
たる所にして、外より伝ハり植たる物にハ
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我が国に生育する菜類のなかにある
「蔓菁」の一種である。食するときに根と葉とを共に用いることなど全く「蔓菁」と変わるところはなく、味もまた同じである。アイヌの人々の言うには、ラタネは通常の草とは異なり、少しも毒気がないとのことである。従ってこの菜に限っては、病人にも安心して食べさせているのである。蝦夷地のうち極北の地を除き、土地の美悪に拘らず、作りさえすればよく成熟するとのことである。よって多く作られた場合、凶作の年の備えとなり、便利なことである。
* 右に掲げたの二種の作物は、蝦夷地開闢以来の自生種であり、外部から伝来して植え付けられたものでは |
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第2巻, 13ページ, タイトル: |
| あらす、此うちアユシアマヽは穀類の一種にして、
ラタ子は菜類の一種なり、是によりて考ふるに、
後来に及ひ人民蕃湿し耕耘の力を致し、
稼穡の務を尽す事あるに至らんにハ、禾穀
菜草の類、森然として蝦夷の地に生せん事も
いまた知るへからす、此より後に図するところは、
此二種のものを作り立るより食するに
いたるまての次第、夷人ことに心を用る事を録
せるなり、 |
ない。このうちアユシアママは穀類の一種であり、ラタネは菜類の一種である。
このことから考えるに、将来蝦夷地に人民が殖え、農耕に力を尽くすことになった場合、禾穀・草菜の類が、この地に森の繁りのように生じてこないとも限らないであろう。なお、これから後に掲げる図は、この二種の作物を栽培するところから食するに至る迄の次第のうちから、アイヌの人々が殊に心を用いる場面を収録したものである。
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第3巻, 16ページ, タイトル: |
| ムルクタウシウンカモイと称する事は、ムルクタは前に
いふか如く糠を捨る事をいひ、ウシは立事を
いひ、ウンは在る事をいひ、カモイは神をいひて、
糠を捨る所に立て在る神といふ事也、是はアユウシ
アマヽとラタ子の二種は神より授け給へるよし
いひ伝へて尊ひ重んする事、初めに記せる如く
なるにより、およそ此二種にかゝはりたる物は
聊にても軽忽にする事ある時は、必らす神の
罰を蒙るよしをいひて、それより出たる糠と
いへとも敢て猥りにせす、捨る所を住居のかたハらに
定め置き、イナヲを立て神明の在る所とし、尊ミ
をく事也、唯糠のミに限らす、凡て二種の物の
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ムルクウタウシウンカモイとは、「ムルクタ」は前に述べた通り糠を捨てることを、「ウシ」は立てることを、「ウン」は「在る」という語を、「カモイ」は神をそれぞれ表し、合わせて「糠を捨てる所に立ててある神」という意味である。これについてであるが、アユウシアママとラタネの二種類の作物が神から授けられ給うたものと言い伝えて尊び重んじられていることは前に記した通りである。
そして、この二種類の作物に関わる物は、どんなものであっても軽率に扱えば必ず神罰を蒙るといい慣わしている。よってそれらから出た糠といえどもみだりには扱わず、捨てるところを住居の傍らに定めて置き、イナヲを立て、神明のいます所として尊んでいるのである。これは糠に限っての扱いではない。この二種類の作物の |
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第3巻, 19ページ, タイトル: |
| 是はアユウシアマヽを烹るさまを図したる也、
アマヽシユケといふは、アマヽは穀食の事をいひ、シユケ
とは烹る事をいひて、穀食を烹るといふ事也、
穀食は炊くともいふへきを、烹るといへるものは、夷
人の境、未飯に為す事をハしらて、唯水を多く
入れ粥に烹る計りの事なるゆへ、かくは称する
なり、又ラタ子を食するは、汁に烹て喰ふ事也、
其食せんとする時、トイタに植をきたるを掘り
とり来りて、
ラタ子はよく熟するといへとも、一時に残らす掘
とりて貯へ置といふ事はせす、植たるまゝにて
トイタにをき、食するたひことに掘り出して用ゆる
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この図は、アユシアママを煮る様子を描いたものである。アママシユケとは、「アママ」が穀物のことを、「シユケ」が煮ることを表し、合わせて「穀物を煮る」という意味である。
穀物であるから「炊く」というのが通常であろうところを「煮る」といっているのは、アイヌの人々の住む地域では、いまだに穀物を飯とすることを知らず、ただ水を多く入れ粥として煮るのみであることによる。また、ラタネは、汁に入れて煮て食する。
ラタネを食べようとするときには、トイタに植えておいたものを掘り取ってきて、
* ラタネは、よく熟した場合でもいっぺんに残らず掘り取って貯えておくようなことはしない。植えたままでトイタに放置しておき、食する度ごとに掘り出して用いる
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第3巻, 20ページ, タイトル: |
| なり、但し寒気の甚しくして土地の氷れる
時に至れは、やむ事を得すしてミな掘り出して
貯へ置く也、
それを根菜ともにきりて、魚の肉と同しく鍋に
入れ、水をもて少しく塩けの有よふに烹て
食する也、是をラタ子ヲハワと称す、ヲハワトは
汁の事をいひて、ラタ子を入れたる汁といふ事也、
すへて汁の実に魚を用ゆる事、夷人の常
食にて、ラタ子は其助けに用ゆる也、然るゆへに、
いつれ魚と雑へ烹る事にて、ラタ子計り烹ると
いふ事ハあらす、唯根の格別に大なるは、湯煮
になして食事の外に喰ふ事あり、
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のである。
そして寒気が甚だしくなり、地面が凍ってしまうような時に至り、やむを得ず皆掘り出して貯え置くのである。
根と葉を取り除いた上で、それを魚の肉と一緒に鍋に入れ、水により少々塩気がきくように煮て、食するのである。この料理をラタネヲハワという。「ヲハワ」とは汁のことを表し、「ラタネを入れた汁」という意味である。
* 概ねにおいて汁の実に魚を用いるのがアイヌの人々の常食であり、ラタネは付け合わせとして用いられる。従って、魚に交えて煮られるものであり、ラタネ単独で煮られるということはない。ただし、格別に大きな根は、そのまま茹でて食事とは別に食されることがある。
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第3巻, 21ページ, タイトル: |
| 本邦にいはんには、なを菓子なとに用ゆるか如し、
其汁の実の助となす物は、ラタ子の外にも
海苔あるは草とふを用ゆる事有、其草のかす
又多し、委しくは食草の部にミえたり、
右のうちアユウシアマヽは 本邦の事に
比していはんには、なを飯の如く、ラタ子はなを
菜汁とふの如き物なれとも、夷人の習ひ然る
事にさたまりたるにハあらす、二つともにいつれも
糧食となす事也、すへて此等の類の飲食に
かゝはりたる事は、専ら女の夷人の業となす事、
本邦にことなる事あらす、其食するさまの
委曲は後の図にミえたり、
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わが国でいうと、ちょうど菓子などとして用いるようなものである。なお、汁の実のとして付け合わされるものには、ラタネの他に、海苔や草などが挙げられる。その草の種類は少なくない。詳しくは、本稿「食草の部」に記されている。
二種の作物のうちアユシアママは、わが国でいうならば飯のようなもので、ラタネは同じく菜汁のようなものといえる。しかし、アイヌの人々の流儀では、そのように定まっているわけではない。両者ともに等価の糧食としているのである。なお、こうした飲食に関わる作業が専らアイヌ女性の領分であることは、わが国のそれと同様である。食事の様子の詳細については、次に掲げた図に示した通りである。
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第3巻, 27ページ, タイトル: |
| 尊ミ拝するの詞なるよし夷人いひ伝へたり、此中
魚を喰ふにもチエツプトミカモイと唱へ、汁を喰ふ
にもまた同しくチエツプトミカモイと唱ふる事は、
前の条にしるせし如く、汁の実はいつれ魚肉を
用ゆる事、其本にして、ラタ子あるは草とふを
入る事はミな其助けなるゆへ、魚肉を重となすと
いふのこゝろにて、同しくチエツプトミカモイと唱ふる
なり、
これのミにあらす、すへて食するほとの物ハ何に
よらす其物の名を上に唱へ、某のトミカモイと
唱へて食する事、夷人の習俗なり、
一日に両度つゝ食するうち、朝の食は
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拝むために唱えられるのが、
この詞なのだそうだ。さてその詞についてであるが、魚を食べるに際してもチヱツプトミカモイと唱え、汁を食するにも同じくチヱツプトミカモイと唱えている。それは何故かというと、前条に記したように、汁の実には大抵魚肉を用いることが基本であり、ラタネあるいは草などを入れるのは付け合せに過ぎないため、魚肉が主であるという考えに立って、同じくチヱツプトミカモイと唱えているのである。
* これだけではなく、食材として用いるもののすべてに対して、それがどんなものであれ、その食材の名称を上に唱え、何々トミカモイと唱えてから食事を行なうのが、アイヌの人々の慣習である。
一日に二度の食事のうち朝食は、
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