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第1巻, 6ページ, タイトル: |
| イナヲは 本邦にいふ幣帛の類なるにや、
都て蝦夷の俗は質素純朴なるによりて、天地の
事より初め神道を尊ひおそるゝ事、其国第一の
戒めたり、然るゆへに何事を為すにつきても、まつ
神明を尊ひ祭る事をつとめとして、是をカモイ
ノミと称す、
カモイは神をいひ、ノミは祈る事をいひて、
神を祈るといふ事也、日本紀に神祈とかきて
カミイノミと訓したると同し事なるにや、
委しくはカモイノミの部に見ゑたり、カモイノミの部未成
其カモイノミを行ふには、かならす此イナヲを用る
事故、神明を祭るにさしつひて大切なる物と
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イナヲとは、わが国でいう幣帛の一種のことと考えられる。「蝦夷」の風俗は、概ねにおいて質素純朴である。彼らの国の開闢以来一番の戒めとして、神道を尊び畏怖することを挙げているほどだ。従って、何事をするにつけても、まず神明を尊び祭ることを旨としており、それをカモイノミと称している。
*カモイは神を意味し、ノミは祈るという意味であり、神を祈るという意味である。『日本紀』(『日本書紀』)に「神祈」とかいて「カミイノミ」と訓ませている事例と同じことであろうか。詳しくは本書「カモイノミの部」を参照されたい。<割注:カモイノミの部未成>
カモイノミを行なうには、必ずこの図にあるようなイナヲを用いることになっている。それゆえ彼らにとってイナヲは、神明を祭るにあたって重要なものと
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第1巻, 7ページ, タイトル: |
| する事也、是を製せんとすれは、潔斎ともいゝつ
へきさまに、まつ其身を慎ミいさきよくす
る事をなして、それより図の如くに製する也、
潔斎ともいふへき事は夷語にイコイコイと
いひて、身を慎ミいさきよくする事のある也、委し
くはカモイノミの部にミえたり、
是を製するに、小刀よふの器も、よのつねのは
用ひす、別にイナヲを製するためにたくハへ置
たるを取りいてゝ用ゆ、イナヲに為すへき木ハ何の
木とさたまりたるにもあらねと、いつれ質の白く
して潔き木にあらされハ用ひす、其の削り出し
たる木のくすといへとも妄にとりすつる事は
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位置づけられている。
イナヲを作製するにあたっては、まるで潔斎でもするかのような様子で、その身を慎み清める行ないをしたうえで、図のような作業にかかるのである。
*潔斎でもするかのような行為のことについてであるが、彼らの言葉でイコイコイという、身を慎み清める行ないがある。イコイコイについての詳細は、本稿「カモイノミの部」を参照されたい。
イナヲを作製するにあたっては、日常用いている小刀は使用されない。特別にイナヲ作成用としてしまってあるものを取り出して用いるのである。イナヲとなる樹木の種類についてであるが、定まった決まりがあるわけではない。ただし、どんな種類であっても材質が白く清潔な木でなければ用いられることはない。こうした木からイナヲを作製する過程で生じた削りくずといえども、妄りに捨ててしまうことは
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第1巻, 8ページ, タイトル: |
| あらす、
ことーーく家のかたハらのヌシヤサンにおさめ
置事也、
ヌシヤサンの事、カモイノミの部にミえたり、
其製するところの形ちは、神を祭るの法にした
かひて、ことーーくたかひあり、後の図を見て知へし、
凡て是をイナヲと称し、亦ヌシヤとも称す、此二つの語
未さたかならすといへとも、イナヲはイナボの転語
なるへし、 本邦関東の農家にて正月十五日に
質白なる木をもて稲穂の形ちに作り糞壤にたてゝ
俗にいふこひつかの事也、
五穀の豊穣を祈り、是をイナボと称す、此事いか
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ない。
それらは一つ残らず家の傍らにあるヌシヤサンに納め置かれるのである。
*ヌシヤサンのことについてであるが、本稿「カモイノミの部」を参照されたい。
作製されたイナヲの形状についてであるが、神を祭るに際しての法に従って、ひとつひとつに相違がある。後掲の図を参照されたい。
これらを総称してイナヲまたはヌシヤという。この二つの語源は未詳であるが、うちイナヲはイナボ(稲穂)の転訛と考えられよう。我が国の関東農村において、正月一五日に材質の白い樹木を用いて稲穂の形にこしらえたものを糞壌に立てて
*俗にいう「こひつか」(肥塚)のことである。
五穀豊穣を祈る儀礼があるが、その木製祭具を「イナボ」と称している。
この儀礼は、 |
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第1巻, 18ページ, タイトル: |
| 義にて、たゝ陰陽の二つを男女と分ちたる事なる
へし、これらの事誰おしへたるにもあらねと、用る
ところのイナヲ男女のミなるにしたかひて、其削れ
るかたち自ら仰伏のたかひありて、陰陽の象を
表したること誠に天地の自然に出たるにてそある
へき、委しくは図を見てしるへし、夷語に男子を
ビンといへる事は、其義いまた詳ならす、婦女を
マチといへる事は、まさしく日本紀に命婦とかきて
マチと訓したり、此マチ子アベシヤマウシイナヲを一には
メノコアベシヤマウシイナヲともいへり、メノコといふも女の
事にて、是はとりもなをさす女子なるへし、
此二つのイナヲはヒロウといへる所の辺より
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意味合いで、単に陰陽の二つを男女として分けたのではないか。こうした区分を誰が教えたというわけでもなかろうが、用いられるイナヲが男女のみであり、また、その削られた形状も自然と仰伏の相違があり、陰陽の象を表わしている。こうした区分は、誠に天地の自然が為さしめたものであろう。詳しくは、図を御参照ありたい。アイヌ語で男子を「ビン」という訳は、いまだ詳らかではない。しかし、婦女のことを「マチ」というのは、まさしく『日本紀』に命婦と書いて「まち」と訓じているのと通じている。また、このマチネアベシヤマウシイナヲは別にメノコアベシヤマウシイナヲともいう。「メノコ」という語も女を意味しており、これはとりもなおさず女子のことであろう。この二つのイナヲは、ヒロウという所辺りから
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第1巻, 20ページ, タイトル: キケチノイイナヲの図二種 |
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第1巻, 22ページ, タイトル: |
| これは家中の安穏を祈るに用ゆ、キケとは
物を削る事をいひ、チは助語なり、ノイといふは
物を捻る事をいひて、削り捻るイナヲといふ事也、
此等の語もほゝ 本邦の野鄙なることはに
通するにや、 本邦の詞に物を削る事をカク
といふ、カクはキケと通すへし、ノイはねへと通して
ねちといふの転語なるへし、さらはキケノイヽナヲは
かきねちるイナヲといふ事と聞ゆるなり、二種のうち
初の図はシリキシナイといへる所の辺よりビロウと
いへる所の辺迄に用ゆ、後の図はビロウの辺より
クナシリ島の辺まてに用ゆる也、其形ちの少しく
たかへる事は図を見てしるへし、
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これは、家中の安穏を祈るのに用いられる。「キケ」とは物を削ることをいい、「チ」は助詞、「ノイ」は物を捻ることを表わし、合わせて「削り捻るイナヲ」という意味である。これらの語も、ほぼ我が国の田舎の言葉に通じているようだ。我が国の言葉では、物を削ることを「かく」という。「かく」は「キケ」に通じるだろうし、「ノイ」は「ねえ」と通じ、「ねじ」という言葉の転語であろう。そうであるならば、キケチノイイナヲとは、「かきねじるイナヲ」という意味に聞こえるのである。なお、二種の図のうち、最初の図はシリキシナイという所の辺りからビロウという所の辺りまでに用いられており、後の図はビロウの辺りからクナシリ島の辺りまでに用いられているものである。その形状に少々相違がある点は、図によって確認されたい。
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第1巻, 25ページ, タイトル: |
| これは何とさたまりたる事なくすへて神明を
祈るに用ゆる也、キケは前にいふと同し事にて
削る事をいひ、ハアロは物の垂れ揺くかたちをいひ、
セは助語にて、削りたれ揺くイナヲといふ事也、
此ハウロといへることはも 本邦の俗語に、物のかろく
垂れ揺くさまをフアリーーーといふ事有、しかれは
ハウロはフアリと通して、キケハウロイナヲといふは
削りふありとしたるイナヲといふ事と聞ゆる也、
二種の形ちの少しくかハれる事あるは、前のキケ
チノイヽナヲにしるせしと同し事にて、前の図はシリ
キシナイの辺よりビロウの辺迄に用ひ、後の図はヒロウ
の辺よりクナシリ嶌の辺まてにもちゆる也、 |
これは、特定の定まった対象はないが、神明一般に祈る際に用いられる。「キケ」は前に述べたのと同様削ることをいい、「ハアロ」は物の垂れ動くかたちを表わし、「セ」は助詞であり、合わせて「削り垂れ動くイナヲ」という意味である。
この「ハアロ」という言葉についてであるが、我が国の俗語で、物が軽く垂れ動く様子を「ふあり、ふあり」ということがある。即ち、「ハウロ」は「ふあり」と通じて、キケハウロイナヲとは「削りふありとしたるイナヲ」という意味に聞こえるのである。
なお、図に掲げた二種の形に少々相違があるのは、前のキケチノイイナヲの個所で記したのと同様、最初の図はシリキシナイという所の辺りからビロウという所の辺りまでに用いられており、後の図はビロウの辺りからクナシリ島の辺りまでに用いられているものである。
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第1巻, 27ページ, タイトル: |
| ハルケとは縄の事をいひて、縄のイナヲといふ事
なり、又一つにはトシイナヲともいふ、トシは舩中に
用ゆる綱の事をいひて、綱のイナヲといふ事
なり、是はこのイナヲの形ち縄の如く、又綱の如く
によれたるゆへに、かくは称する也、此イナヲはすへて
カモイノミを行ふの時、其家の四方の囲ひより初め
梁柱とふに至るまて、 本邦の民家にて
正月注連を張りたる如く奉けかさる也、按るに、
本邦辺鄙の俗、注連にはさむ紙をかきたれと
称し、又人家の門戸に正月あるひは神を祭る
事ある時は、枝のまゝなる竹を杭と同しく立て、
注連を張り、其竹につけたる紙をも又かきたれと
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「ハルケ」とは縄のことを表わし、「縄のイナヲ」という意味である。また、別にトシイナヲともいう。「トシ」とは船で用いる綱のことをいい、「綱のイナヲ」という意味である。これは、このイナヲの形状が縄のように、あるいは綱のように撚れているために、こう称されるのである。このイナヲは、カモイノミを行なうときに、家の四方の囲いからはじめ、梁柱などに至るまでの隅々を、我が国の民家において正月に注連縄を張るように奉げ飾るのに用いられるのである。按ずるに、我が国の辺鄙の地における風俗に、注連縄に挟む紙を「かきたれ」と称し、また人家の門戸に正月あるいは神事がある時に枝のままの竹を杭のように立て注連縄を張るのであるが、その竹につけた紙のことも「かきたれ」と
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第1巻, 37ページ, タイトル: |
| ハシとは木の小枝の事をいふ、すなハち
本邦にいふ柴の類にて、柴のイナヲといふ事也、
是は漁獵をせんとするとき、まつ海岸にて水伯
を祭る事あり、其時此イナヲを柴の□籬の如く
ゆひ立て奉くる事なり、其外コタンコルまたはヌシヤ
サンなとにも奉け用る事もあり、
コタンコル、ヌシヤサンの事は、カモイノミの部に
ミえたり、
右に録せし外、イナヲの類あまたありといへとも、
其用るところの義、未詳ならさる事多きか故に、
今暫く欠て録せす、後来糺尋の上、其義の
詳なるをまちて録すへし、 |
「ハシ」とは木の小枝のことである。即ち、わが国でいう柴の類であり、「柴のイナヲ」という意味である。漁猟をしようとするときには、まず海岸で水伯を祭ることをなす。その時に、このイナウを柴の□籬のように結い立てて奉げるのである。その他、コタンコルまたはヌシヤサンなどにも奉げ用いることもある。
* コタンコルやヌシヤサンのことについては、本稿「カモイノミの部」に記してある。
右に記した他にも、イナヲの類は沢山あるが、その用途の意義がいまだに詳らかではないものが多いので、とりあえず今は記さずにおくこととしたい。後日聞き取りの上、その意義が詳らかになるのを待って、記すことを期するものである。
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第3巻, 17ページ, タイトル: |
| 朽たる根、あるは枯たる葉、其余二種の物に
あつかるほとの器具は、臼・杵・鐺・椀より初め、炉上
に穂を干すの簾、あるは自在とふの物に至る
まて、破れ損する事あれはひとしく是を右の
所に捨置て他にすつる事決てあらす、ことに其
破れたる器具を水を遣ふの事に用ひ、及ひ
水中に捨る事なとは甚忌ミきらふ事也、
其神を祭るの事はカモイノミの部に委しく
見ゑたり、
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すべての部分、
たとえば根や枯れた葉、またその接触したすべての器具、たとえば臼・杵・鍋・椀を始め囲炉裏の上で穂を干す簾や自在鈎などの物に至るまで、破損してしまったものがあるとすべて同じ所に捨てることとなっており、決して他の場所に捨てられることはない。特に破損した器具を水をつかう作業に用いたり、水中に捨てることは、大変忌み嫌われている。
こうした神を祭ることについては、本稿「カモイノミの部」に詳しく記してある。
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第4巻, 4ページ, タイトル: |
| 凡夷人の舟は敷をもて其基本とす、しかるか
故に舟を作んとすれは、まつ初めに山中に
入て敷となすへき大木を求むる事也、
夷人の舟は、敷をもて本とする事、後に
くハしく見へたり、
其山中に入んとする時にあたりてハ、かならす先つ
山口にて図の如くイナヲをさゝけて山神を祭り、
イナヲといへるは、 本邦にいふ幣帛の類也、
くハしくはイナヲの部にミえたり、
埼嶇□嶢のミちを歴るといへとも、身に
恙なくかつは猛獣の害にあはさる事とふを
祈る也、其祈る詞にキムンカモイヒリカノ
|
☆すべてアイヌの舟は船体が基本である。だから舟を作ろうとすれば、まずはじめにおこなうのは山に入って船体とする大木を探し求めることである。
<註:アイヌの舟は船体が基本であることは、後に詳しく述べられている>
☆そのために山の中に入ろうとするときには、かならず最初に山の入り口で図のようにイナウを捧げて山の神を祭り、
<註:イナウというのはわが国でいうところの御幣のたぐいである。詳しく
は「イナヲの部」に述べられている>
☆ 崖や@@の道を歩きまわっても、自分のからだにつつがなく、さらに猛獣に襲われないことを祈るのである。その祈りことばに「キムンカモイヒリカノ
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第4巻, 5ページ, タイトル: |
| イカシコレと唱ふ、キムンは山をいひ、カモイは
神をいひ、ヒリカは善をいひ、ノは助語なり、
イカシは守護をいひ、コレは賜れといふ事にて、
山神よく守護賜れといふ事也、かくの如く
山神を祭り終りて、それより山中に入る也、
木を尋る時のミに限らす、すへて深山に入んと
すれハ、右も祭りを為す事夷人の習俗也、
こゝに雪中のさまを図したる事ハ、夷人の
境、極北辺陲の地にして、舟とふを作るの時、
多くは酷寒風雪のうちにありて、その
艱険辛苦の甚しきさまを思ふによれり、後の
雪のさまを図したるはミな是故としるへし、
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イカシコレ」と唱える。キムンというのは山をいい、カモイは神をいい、ヒリカは善くをいい、ノは助詞である。
イカシは守ることをいい、コレはしてくださいなという意味であって、「どうぞ山の神様よろしくお守りくださいませ」ということである。このように、山の神へのお祈りを終えてそれから山の中にはいるということなのである。木を探すときばかりではなく、山の中に入ろうとすれば、右のようなような祭りをすることはすべてアイヌの人びとの習俗なのである。
ここに雪中での作業の様子を図にしたのは、アイヌの人びと境域?は極北の辺地であって、舟などを作るとき、多くは酷寒の風雪はなはだしい時期におこなわれるので、その作業の困難辛苦のようすを思うためである。後にも雪の中での作業を描いているのはみなその理由であることを知っておいてほしい。 |
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第4巻, 11ページ, タイトル: 舟敷の大概作り終りて木の精を祭る図 |
| 舟敷の大概つくり終りてより、其伐り
とりし木の株ならひに梢にイナヲを
さゝけて木の精を祭る事図の如し、其祭る
詞にチクニヒリカノヌウハニチツフカモイキ
ヤツカイウエンアンベイシヤムヒリカノイカシコレ
と唱ふ、チクニは木をいひ、ヒリカはよくといふ事、
ヌウハニは聞けといふ事、チツフは舟をいひ、
カモイは神をいひ、キは為すをいひ、ヤツカイは
よつてといふ事、ウエンアンベは悪き事を
いひ、イシヤムは無きをいひ、ヒリカは上に同し、
イカシは守護をいひ、コレは賜れといふ事にて、
木よく聞け、舟の神となすによつて悪事
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☆ 船体のおおよそを造り終わってから、その伐りとった木の株と梢にイナウを捧げて木の霊をお祭りすることは図にしめしたとおりである。その祈りことばは「チクニヒリカノヌウハニチツフカモイキヤツカイウエンアンベイシヤムヒリカノイカシコレ」と唱えるのである。その意味はチクニは木のことをいい、ヒリカはよくということ、ヌウハニは聞けということ、チツフは舟のことをいい、カモイは神をいい、キはするといい、ヤツカイはよってということ、ウエンアンベは悪いことをいい、イシヤムは無いということ、ヒリカは上と同じ、イカシは守護をいい、コレはしてくださいということであって、「木よ、よく聞いてください。あなたを舟の神とするので、悪いことが
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第4巻, 12ページ, タイトル: |
| 舟敷の大概つくり終りてより、其伐り
とりし木の株ならひに梢にイナヲを
さゝけて木の精を祭る事図の如し、其祭る
詞にチクニヒリカノヌウハニチツフカモイキ
ヤツカイウエンアンベイシヤムヒリカノイカシコレ
と唱ふ、チクニは木をいひ、ヒリカはよくといふ事、
ヌウハニは聞けといふ事、チツフは舟をいひ、
カモイは神をいひ、キは為すをいひ、ヤツカイは
よつてといふ事、ウエンアンベは悪き事を
いひ、イシヤムは無きをいひ、ヒリカは上に同し、
イカシは守護をいひ、コレは賜れといふ事にて、
木よく聞け、舟の神となすによつて悪事
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☆ 船体のおおよそを造り終わってから、その伐りとった木の株と梢にイナウを捧げて木の霊をお祭りすることは図にしめしたとおりである。その祈りことばは「チクニヒリカノヌウハニチツフカモイキヤツカイウエンアンベイシヤムヒリカノイカシコレ」と唱えるのである。その意味はチクニは木のことをいい、ヒリカはよくということ、ヌウハニは聞けということ、チツフは舟のことをいい、カモイは神をいい、キはするといい、ヤツカイはよってということ、ウエンアンベは悪いことをいい、イシヤムは無いということ、ヒリカは上と同じ、イカシは守護をいい、コレはしてくださいということであって、「木よ、よく聞いてください。あなたを舟の神とするので、悪いことが |
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第5巻, 4ページ, タイトル: |
| 舟の製作が完全に終ってから、図のようにイナヲを舳に立てて、舟神を祭るのである。舟神は、今、日本の船乗りのことばで舟霊(ふなだま)というものと同様である。それを祈ることばに「チプカシケタウエンアンベイシヤマヒリカノイカシコレ」という。
チプは舟をいい、カシケタは上にということ、ウエンは悪いことをいい、アンベは有ることをいい、イシヤマは無いということ、ヒリカは良いということ、イカシは守ることをいい、コレは賜れということで、「舟の上で悪いことがあることなくよく守り賜え」ということである。この舟神に祈ることはただ、船上での安全を祈願するだけではない。新しく作る
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舟の製作全く整ひて後、図の如くイナヲ
を舳に立て舟神を祭るなり、舟神は今
本邦舩師の語に舟霊といふか如し、其
祈る詞に、チプカシケタウエンアンベイシヤマヒリ
カノイカシコレと唱ふ、チプは舟をいひ、カシケタは
上にといふ事、ウエンは悪き事をいひ、アンベは
有る事をいひ、イシヤマは無き事をいひ、
ヒリカはよきをいひ、イカシは守護をいひ、
コレは賜れといふ事にて、舟の上悪き事
ある事なくよく守護を賜へといふ
事なり、此舟神を祈る事ハ、唯舟上の
安穏を願ふのミにあらす、新たに造れる
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第5巻, 26ページ, タイトル: |
| 是は上に出せる六種の具ことーーく備りて
海上に走らんとするの図なり、まつ海上に走らんとすれハ水伯に祈り、海上安穏ならん事を願ふ、其祈る詞に、アトイカモイ子トヒリカノイカシコレと唱ふ、アトイは海をいひ、カモイは神をいひ、子トは風波の穏かなるをいひ、
俗になきといふか如し、
ヒリカノイカシコレは前にしるせるか如く、海の
神風波のおたやかなるよふによく守護
たまへといふ事也、右の祈り終りてそれ
より出帆するなり、すへて夷人の舟を乗るにもことーーく法有ことにて、
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これは上述した六種類の器具が完備して海上を航行しようとする図である。
まず、海上を航行しようとすれば、水の神にお祈りして海上での安穏無事をお願いする。その祈り詞は「アトイカモイ子トヒリカノイカシコレ」と唱える。アトイは海のことをいい、カモイは神をいい、ネトは風波の穏かなことをいい(俗に凪という)、ヒリカノイカシコレは前述したように、「海の神さま、風波のおたやかであるよう、よくお守りしてください」ということである。
このお祈りが終って、それから出帆するのである。総じて、アイヌの人びとは舟に乗るにもことごとく法則があって、
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第5巻, 51ページ, タイトル: |
| 三種の中、ナムシヤムイタとウムシヤムイとハ、前に
出せるとことならす、トムシの義いまた詳ならす、
追て考ふへし、ウヘマムチプに用る此よそをひの
三種は、破れ損すといへともことーーく尊敬して
ゆるかせにせす、もし破れ損する事あれは、
家の側のヌシヤサンに収め置て、ミたりにとり
すつる事ハあらす、
ヌシヤサンの事はカモイノミの部にくハしく
見えたり
かくの如くせされは、かならす神の罸を蒙る
とて、ことにおそれ尊ふ事也、罸は夷語にハルと
称す、
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三種類の中、ナムシヤムイタとウムシヤムイとは、前述のものと違いはないし、トムシの意味はまだよくわからないので、改めて考えることとしたい。
ウイマムチプで用いるこの装具三種類は、破損したとしてもことごとく尊敬しておろそかにしない。もし破損することがあれば、家の側にあるヌシヤサンに収めておいて、みだりに捨てたりすることはない。
<註:ヌシヤサンのことは「カモイノミの部」(これも欠)に詳述してあ
る>
このようにしなければ、かならず神罸をこうむるからといって、ことに怖れ尊ぶという。罸はアイヌ語でハルという。
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第7巻, 39ページ, タイトル: |
| 此図は木の皮にてふきたる屋の上を草と茅
とにてかさね葺たる家のさま也、竹の葉にて
ふきたる屋の上を草と茅とにてふきたる家も、
又たゝ草と茅とはかりにてふきたる家も、其形ち
図にあらハしたるところにてはいさゝかかはれる事な
きゆへ、此図一を録して右二の図をは略せる也、
右に録せる数種の家、いつれにても経営の事全く
終りてより移住セんとするには、まつ爐を開きて
火神を祭り、また屋の上にイナヲをたてゝ日神を
祭り、それより 本邦にいふわたましなとの
如き事を行ふよし也、然れともこれらの事いまた詳
ならさる事多きゆへ、子細に録しかたし、追て糺尋
の上録すへし、
火神・日神とふを祭る事ハ、委しくカモイノミ
の部に見えたり、
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☆ この図は木の皮で葺いた屋根の上に草と茅とを重ねて葺いた家のさまである。竹の葉で葺いた屋根の上を草と茅とで吹いた家も、また、ただ草と茅ばかりで葺いた家も、そのかたちを図にあらわしたら、すこしもかわるところはないので、この図ひとつを記してあとのふたつは略してある。
右に記した数種の家はいずれも建築がおわってから移り住もうとするには、まず、炉をきって
火の神をまつり、また屋根の上にイナヲをたてて日の神をまつり、それからわが国でいう「わたまし?」などのようなことをおこなうのだという。しかしながら、これらのことはまだよくわからないことが多いのでくわしくしるすことはできない。いずれ改めて聞きただした上でき記録することにしよう。
<註:火の神・日の神などを祭る事は、詳しく「カモイノミの部」に記してある。>
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第8巻, 5ページ, タイトル: |
| たる也、是を行ふ事、たゝに刑罰の事のミとも
きこえす、時によりてハ其者を戒め慎ましめんか
ために行ふ事もありとミゆる也、後にしるせる
六種の法を見て知へし、
これを行ふの法、すへて六つあり、其一つは前に
いふ如く、悪行をなしたるものを打て其罪を督す也、
二つにハ夷人の法に、喧嘩争闘の事あれハ、負たる
者のかたよりあやまりの証として宝器を出す也、
是をツクノイと称す、
此宝器といへるは種類甚多して事長き故に、
こゝにしるさす、委しくハ宝器の部に見へたり、
其ツクノイを出すへき時にあたりて、ウカルの法を
行ひ拷掠する事あれハ、宝器を出すに及ハすして
其罪を免す事也、三つには人の変死する事有
とき、其子たる者に行ふ事あり、是ハ非業の死なる
ゆへ其家の凶事なりとて、其子を拷掠して恐懽
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たものである。これを行なうことはただ刑罰のため
だけとも解釈できない。時によってはその者を戒めてつつしませるために行なうこ
ともあるらしい。後述する六種の法を見て考えてほしい>
ウカルを行なうしきたりにはみんなで六種類ある。
そのひとつは前述のように、悪いことをしたものを打ってその罪をただすことである。ふたつめはアイヌの人びとのおきてに、けんかや争い事があれば、負けた方からお詫びのしるしとして宝物を差し出すことがある。これをツグノイ【トゥクナイ?:tukunay?/償い】という。
<註:この宝物というのは種類がとても多く、説明すると長くなるのでここには述べな
い。詳しくは「宝器の部」に記してあるので参照されよ。>
そのツグノイを差し出すに際して、ウカルを行なってむち打たれることがあれば、宝物を差し出す必要はなくして、その罪が許されるのである。みっつめは、人が変死したときにその子に行なうことがある。変死というのは非業の死なので、その家の凶事であるから、その子をむち打って怖れ
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第8巻, 6ページ, タイトル: |
| 戒慎せしめ、子孫の繁栄を祈る心なり、又其子
たる者親の非業の死をかなしミ憂苦甚しく、ほとんと
生をも滅せん事をおそれ、拷掠して其心気を励し
起さんかために行ふ事も有よし也、四つにハ父母の
死にあふ者に行ふ事有、是ハ其子たるものを強く
戒しめて父母存在せる時のことくに万の事をつゝしミ、
能家をさめしめん事を思ひて也、五つにハ流行の
病とふある時、其病の来れる方に草にて偶人を作り
立置て、其所の夷人のうち一人にウカルの法を行ひ
て、その病を祓ふ事有、六つにハ日を連て烈風暴雨等ある
とき、天気の晴和を祈て行ふ事有、此流行の
病を祓ふと天気の晴和をいのるの二つは、同しく拷掠
するといへとも、シユトに白木綿なとを巻て身の痛まさる
よふに軽く打事也、此ウカルの外に悪事をなしたる
者あれハ、それを罰するの法三つ有、一つにはイトラスケ、
二つにはサイモン、三つにはツクノイ也、イトラスケといふは、
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慎ませて子孫の繁栄を祈るこころなのである。また、その子は親の非業の死を悲しみうれうることがはなはだしく、ほとんど命を失わんばかりになることを心配して、むち打つことでかれの気持ちを奮い起こすために行なうこともあるという。
よっつめは父母の死にあったものに行なうことがある。これはその子どもを強く戒めて両親が生きていたときのように万事を慎んで、うまく家を守るようにと願ってのことである。いつつめは、伝染病が流行したときなど、伝染病が来る方向に草で作った人形を立ておいて、その村の住人のひとりにウカルを行なって、病気のお祓いをするのである。むっつめは連日、暴風雨が吹き荒れたとき、天候の回復を祈って行なうことがある。
この伝染病のお払いと、天気の回復を祈ることのふたつは、おなじむち打つといっても、シユト【ストゥ:sutu/棍棒、制裁棒】に白木綿などを巻いてからだが痛まないように軽く打つのである。
ウカルのほかに、悪いことをしたものがあれば、かれを罰する方法にみっつある。
ひとつはイトラスケ、二はサイモン【サイモン:saymon/神判、盟神探湯】、三はツクノイである。イトラスケというのは、
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第8巻, 7ページ, タイトル: |
| イトは鼻をいひ、ラスケは截るをいひて、鼻を截るといふ
事也、是ハ不義に女を犯したる者を刑する也、凡夷人の
境風俗純朴なるによりて、盗賊とふの事もすくなく、
其あやまりの証として宝器を出さしめ其罪を償ハする
なり、此三種の刑罰其義未詳ならさる事共多き
ゆへ、まつ其大略をこゝに附して記せる也、追て糺尋のうへ、
部を分ちて録すへし、
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イト【エトゥ:etu/鼻】は鼻をいい、ラスケ【ラ*シケ?:raske/を剃る?】は切るという意味だから、鼻を切るということである。これは不義密通で女性と関係もった男へのしおきである。おしなべて、アイヌの人びとの国ぶりは心が素直で人情が厚いので、盗賊などのことも少なく、まして殺人などはまれなので、刑罰の種類も多くはない。ここでいう鼻を切るなどはもっとも重罪にあたるのである。
サイモニというのは、このことばの解釈はまだよくわからないが、その方法は例えば罪を犯したものがあって、取調べをつくしてもあえてその罪を認めないとき、熱湯を用意してそれに手を入れさせて嘘か誠かただすのである。古い記録に武内宿祢がおこなったとある探湯の法というものであろう。この刑を行なうのは多く女性に対してである。
ツクノオイというのは、とりもなおさず、償うという意味で、前述のように、罪を犯したことがあればそのお詫びのしるしとして宝物を差し出させて罪を償わせるのである。この三種類の刑罰については、その意味がまだよくわからないことも多くあるけれども、まず、そのおおよそをここにあわせて記しておく。おって聞きただしたうえで、部を分けて記録することにしよう。
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