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第2巻, 11ページ, タイトル: |
| ラタ子と称する事は、ラタツキ子といへるを略せるの
言葉也、ラとはすへて食する草の根をいひ、タ
ツキ子とは短き事をいひて、根短しといふ事也、
これは此草の形ちによりてかくは称するなり、
是亦国の開けたる初め火の神降りたまひて、
アユシアマヽと同しく伝へ給ひしよし言ひ伝へて、
ことの外に尊み蝦夷のうちいつれの地にても作り
て糧食の助けとなす事なり、
但し、極北の地子モロ・クナシリ島とふの夷人作る
事のなきは、アユシアマヽに論したると同しき
ゆへとしるへし、
是を 本邦菜類のうちに考ふるに、すなハち
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ラタネとは、「ラタツキネ」という言葉を略した言葉である。「ラ」とは食用植物の根全般を指し、「タツキネ」は「短い」を表わし、あわせて「根が短い」という意味である。
この草がそういう形をしていることから付いた名称である。これもまた、国の開けし始め、火の神が降臨なさって、アユシアママと一緒にお伝えになったと言い伝えられており、ことのほか尊ばれている。この作物も、蝦夷地一円に栽培されており、糧食の一助として用いられている。
*但し、極北の地であるネモロ・クナシリ島等のアイヌの人々がこれを栽培することがないのは、アユシアママのところで論じたのと同じ理由であろう。
ラタネとは、
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第2巻, 13ページ, タイトル: |
| あらす、此うちアユシアマヽは穀類の一種にして、
ラタ子は菜類の一種なり、是によりて考ふるに、
後来に及ひ人民蕃湿し耕耘の力を致し、
稼穡の務を尽す事あるに至らんにハ、禾穀
菜草の類、森然として蝦夷の地に生せん事も
いまた知るへからす、此より後に図するところは、
此二種のものを作り立るより食するに
いたるまての次第、夷人ことに心を用る事を録
せるなり、 |
ない。このうちアユシアママは穀類の一種であり、ラタネは菜類の一種である。
このことから考えるに、将来蝦夷地に人民が殖え、農耕に力を尽くすことになった場合、禾穀・草菜の類が、この地に森の繁りのように生じてこないとも限らないであろう。なお、これから後に掲げる図は、この二種の作物を栽培するところから食するに至る迄の次第のうちから、アイヌの人々が殊に心を用いる場面を収録したものである。
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第2巻, 30ページ, タイトル: |
| 是はアユシアマヽ熟するの時に及て、その穂を
きらんかために手に貝をつけたるさま也、テケヲ
ツタセイコトクといへるは、テケは手の事をいひ、ヲツタ
は何にといふにの字の意なり、セイは貝をいひ、コト
クは附る事をいひて、手に貝を附るといふ事也、
これに用る貝は、夷語にビバセイといふ也、其を小刀
を磨する如くによくときて手に附る也、ヒバセイ
は別に貝類の部にくハしくミえたり、
凡穂をきるにはミなこれを用ひてきる事也、
決して小刀よふの物、すへて刃物を用ゆる事ハ
あらす、奥羽の両国の中まれにハ穂をきるに右の
如く貝を用ゆる事もあるよしをいへり、
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これは、アユシアママが稔るに及んで、その穂を切るために手に貝をつけた様子である。テケヲツタセイコトクというのは、「テケ」は手を、「ヲツタ」は「~に」という語を、「セイ」は貝を、「コトク」は「付ける」をそれぞれ表し、合わせて「手に貝を付ける」という意味である。
* これに用いられる貝を、アイヌ語でビバセイという。この貝を、小刀を研磨するようによく研いで手に装着するのである。ビバセイについては、別記「貝類の部」に詳細である。
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第2巻, 32ページ, タイトル: |
| 是図は前にいへる如く、手に貝をつけてアユシ
アマヽの穂をかるさま也、ウフシトイといへる事は、
ウブシは穂の事をいひ、トイは切る事をいひて、
穂をきるといふ事也、もとより自然に生し
たる如くに作りたる事ゆへ、其たけの長短も
ひとしからす、穂の熟する事もまた遅速の
不同ありて、残らす熟するをまちて収めん
とするには、早く熟したる穂は実の落ち
散る事もあり、或は鳥なとのために喰ひ
尽さるゝ事ありて、其損失ことに多し、しかる
ゆへに、大概に熟するを待て実のりに不同ある
事ハ論せすしてきりとる也、其きりとりし
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この図は、前述のように、手に貝をつけてアユシアママの穂を刈る様子である。ウフシトイというのは、「ウブシ」は穂を、「トイ」は「切る」を表し、合わせて「穂を切る」という意味である。もとより、自生同様に作ったものであるから、その丈の長短も等しくはない。穂の熟する速度もまちまちであり、残らず熟すのを待って収穫しようとした場合、早く熟した穂は実が落ちてしまうことも、あるいは鳥などにより食い尽くされることもあり、損失が少なくない。従って、大体熟するのを見計らって、その稔りの程度にばらつきがあることには構わず、切り取ってしまうのである。 |
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第3巻, 19ページ, タイトル: |
| 是はアユウシアマヽを烹るさまを図したる也、
アマヽシユケといふは、アマヽは穀食の事をいひ、シユケ
とは烹る事をいひて、穀食を烹るといふ事也、
穀食は炊くともいふへきを、烹るといへるものは、夷
人の境、未飯に為す事をハしらて、唯水を多く
入れ粥に烹る計りの事なるゆへ、かくは称する
なり、又ラタ子を食するは、汁に烹て喰ふ事也、
其食せんとする時、トイタに植をきたるを掘り
とり来りて、
ラタ子はよく熟するといへとも、一時に残らす掘
とりて貯へ置といふ事はせす、植たるまゝにて
トイタにをき、食するたひことに掘り出して用ゆる
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この図は、アユシアママを煮る様子を描いたものである。アママシユケとは、「アママ」が穀物のことを、「シユケ」が煮ることを表し、合わせて「穀物を煮る」という意味である。
穀物であるから「炊く」というのが通常であろうところを「煮る」といっているのは、アイヌの人々の住む地域では、いまだに穀物を飯とすることを知らず、ただ水を多く入れ粥として煮るのみであることによる。また、ラタネは、汁に入れて煮て食する。
ラタネを食べようとするときには、トイタに植えておいたものを掘り取ってきて、
* ラタネは、よく熟した場合でもいっぺんに残らず掘り取って貯えておくようなことはしない。植えたままでトイタに放置しておき、食する度ごとに掘り出して用いる
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第3巻, 21ページ, タイトル: |
| 本邦にいはんには、なを菓子なとに用ゆるか如し、
其汁の実の助となす物は、ラタ子の外にも
海苔あるは草とふを用ゆる事有、其草のかす
又多し、委しくは食草の部にミえたり、
右のうちアユウシアマヽは 本邦の事に
比していはんには、なを飯の如く、ラタ子はなを
菜汁とふの如き物なれとも、夷人の習ひ然る
事にさたまりたるにハあらす、二つともにいつれも
糧食となす事也、すへて此等の類の飲食に
かゝはりたる事は、専ら女の夷人の業となす事、
本邦にことなる事あらす、其食するさまの
委曲は後の図にミえたり、
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わが国でいうと、ちょうど菓子などとして用いるようなものである。なお、汁の実のとして付け合わされるものには、ラタネの他に、海苔や草などが挙げられる。その草の種類は少なくない。詳しくは、本稿「食草の部」に記されている。
二種の作物のうちアユシアママは、わが国でいうならば飯のようなもので、ラタネは同じく菜汁のようなものといえる。しかし、アイヌの人々の流儀では、そのように定まっているわけではない。両者ともに等価の糧食としているのである。なお、こうした飲食に関わる作業が専らアイヌ女性の領分であることは、わが国のそれと同様である。食事の様子の詳細については、次に掲げた図に示した通りである。
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第7巻, 41ページ, タイトル: |
| プは夷人の物を入れ置ところにして、
本邦にいはゝ蔵の如きもの也、プといへるはもと器の
事にもいへり、たとへは矢を入る筒をアイイヨツプ
といふか如し、アイは矢をいひ、イヨツは入るをいひ、プは
器をいひて、矢を入る器といふ事也、又物といふ事にもきこ
ゆるにや、アイイヨツプといふを矢を入る物とも解すへし、然れ
とも物といふ語は別にベといふ事ある時は、いつれ器と
解するを得たりとす、しかれハ何のプ某のプといふときは
器の事になり、たゝプと計りいふときは蔵の事になる也、これは
蔵といへるも、もと物を入れをくところゆへ同しく
器の類といふ心にてかくいふと見ゆるなり、
プといへるの解は、委しく語解の部にミえたり、
すへて此等の事、夷人の境言語のかすすくなく
して、物をかねていふゆへなり、
言語のかす少して、言は一つにて物をかねていふ
といへる事は、アユシアマヽの部に委しくミえたり、
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☆プ【プ:pu/倉】はアイヌの人びとが物を入れておくところで、わが国でいう蔵のようなものである。プというのはもと器のことにもいう。たとえば、矢筒をアイイヨツプというように、アイ【アイ:ay/矢】は矢、イヨツ【オ:o/に入っている】は入れるをいい、プ【*プ:p/もの】は器をいって、矢を入れる器ということである。また、プは物ということという意味があるのかもしれない。アイイイヨツプを矢を入れる物とも解釈できる。しかしながら、物という語はほかにベ【ペ:pe/もの】という語もあり、どのみち器という意味に解釈することができる。だから、「何のプ」「だれそれのプ」というときは器のことになり、ただ、プとだけいうときは蔵のことになるのである。これは蔵といえども、もともと物を入れておくところなのでおなじく器のたぐいという意味あいがあってこのようにいうのであろう。
<註:プの解釈は、詳しくは「語解の部」にある。>
【●校訂者註:厳密に言うと、プpuと*プpは別の単語である。また、「もの」という意味の*プpとペpeは、直前の音が母音の場合は*プp、子音の場合はペpeのかたちをとる】
総じて、これらのようなことおこるのは、アイヌの人びとの国では語彙のかずが少ないので物を兼ねていうからである。
<註:語彙数が少ないのでことばひとつでいくつかの物をかねていうことは「アユシア
マヽの部」に詳しい。>
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